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2020/10/28 ジェルコの履歴書

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ジェルコの履歴書 其の参 株式会社OKUTA①

株式会社OKUTA 代表取締役会長 奥田 イサム

 

「中学を卒業してすぐ社会へ」

北海道函館市で生まれた。父祖はマタギを生業としてきて、母方はアイヌ系だ。祖父母がそこで養豚場を経営していた。幼少期は養豚場で育ったが、とても貧しい暮らしだったのを記憶している。「貧乏を恥じることはないが、誇れる事ではない。」というのが父の口癖だった。

高校は行っていない。姉は超優等生、双子の弟も優等生。私は学業があまり好きではなかった。幼少期、両親は共働きで経済的にゆとりがなかったため、お金のことで頻繁に揉めていた。揉めているのを見ていたせいか、早く働きたいと思うようになった。

弟は進学校へ行き、姉は北大へ行った。

私は親に学費の負担を掛けたくなかった。中学校の担任にすぐに働ける仕事は何かと相談したところ、手が器用だから理美容学校がいいんじゃないかと勧められた。先生から勧められた理美容学校へ進学し、学びながら働くことにした。専門学校が終わったら理容店へ行き、夜の9時まで働いた。中学を卒業してすぐに社会へ出たので、姉弟とは違う世界観であったし、一般学生よりも5,6年も先に色々な経験を積むことができたので良かったと思っている。

 

 

1964年ごろ。

「大手かつらメーカーでトップセールスに」

ある時、大手かつらメーカーの技術者求人広告を見つけた。採用には学歴が関係なく、給料も当時貰っていた額より少し上がるし、会社という組織で働いたことがなかったので勤めてみたいという思いで応募した。函館で面接し、技術者として札幌で働くことが決まった。

働きだしてすぐ成績が上がった。かつらは1枚だけでは使えない。修理するためスペアが必要だからだ。スペアを何枚販売するかが技術部の1つのノルマでもあった。

当時外回りの新規営業は技術者ではなかった。技術者はスペアの販売をする。入社して1ヵ月ですぐに成果が出た。営業が天職と気づいたのはこの頃だ。

ある時お客様に、「髪の毛は伸びるのにかつらが伸びないのは気になりませんか?」と何人かにヒアリングしてみたところとても気になるという人が多かった。お客様は1ヵ月か2カ月に1回自毛をカットするので、より自然に見せるため、自毛の長さに合わせて数ミリ単位の段差をつけて作ることを考え出した。それにはとても技術が必要だったが、その技術が評価されお客様1人に対してスペアを5枚~10枚ぐらい販売できるようになり他の社員より数倍売れるようになっていった。

特徴があったのは当時まわりは替え刃式の剃刀をカツラのカットに使用していた。奥田は研ぎが必要な西洋剃刀を使用していた。修業時代に日本剃刀を毎日何枚も研いでいたので仕上げには自信があった。自分で研いだ西洋剃刀は凄く繊細で、切る技術によって毛の繊維が産毛のように細くなり、先が白髪葱にした時の様にクルクルと丸くなる。替え刃剃刀は切れる角度が決まっており、斜めでまっすぐな切り口になる。そのため先端が太く見える。自分で研いだ西洋剃刀で、産毛の再現が出来るほど、生え際に馴染んで自然な風合いのかつらを作製した。毛の段差をつけたかつらも作製し、お客様から技術力を高く評価され、指名も増えて、且つオーダーも増えトップセールスになった。ただ営業していた訳ではなく、おもてなしの心、会話から吸収しそれを役立てる、毎日さぼらず刃を研ぐ努力、既存商品の更なる機能向上のため技術を身につけた結果、成果を得ることができた。

 

「苫小牧支店で全国No.1に」

趣味はサーフィンで、札幌から苫小牧まで通っていた。サーフィンをしたかったので、札幌から苫小牧へ異動願いを出したところ受理され海の目の前に引っ越した。当時の苫小牧の人口は15万人ほど。苫小牧支店で働くようになってから、ある日突然、本社からFAXが届いた。全国でNo.1の成績だという。地方都市苫小牧市の支店なのに、単月で全国トップの成績をとった。本社でも苫小牧で何が起きているのかと驚いたのではないか。全国トップは1,000万以上の売上がないと取れない。それで新宿本店に転勤を命じられ埼玉県武蔵浦和に居住した。サーフィンをやりたくて苫小牧に異動したが、趣味のサーフィンは1度お休みすることとなった。会社の社宅が武蔵浦和にあったので、以来、埼玉県にずっといる。

 

「不動産業で年収4,000万円」

バブル全盛期だったので、転勤した翌月に3,337万円を売り上げた。普通のTOPセールスは1000万なので3倍の売上。その全国TOPになり、9か月ほどで2億円以上の売上。自分の中で目的を成し遂げた気持ちになり満足してしまった。それで他の世界を見てみたいと思う気持ちが芽生えた。

指名をいただいていたお客さんに不動産会社の社長さんがいた。その社長は毎月50万円のかつらを1、2枚購入してくれていた。かつらは新しい方が自然に見える。紫外線を浴びると劣化し、変色して茶色くなり、産毛は洗うと抜けてしまう。新しいかつらはコシがあり、質が良く自然に見える。毎月1、2枚購入してくれる社長さんを見て、不動産業は凄いところなんだなと思った。不動産業の方々は皆羽振りが良かった。ある日その社長さんに「君は不動産営業に向いているよ」と言われ「学歴がないので無理です」と言ったが、「君は絶対向いている」と更に言われたので転職について考えるようになった。TOPを取って賞を貰いたかった訳ではないので、受賞式には参加しなくて良いと思った。若かったのでお金が欲しいと野心的な気持ちもあった。

その社長さんに入社を誘われた。社長さんと自分の間にかつらと言う秘密があるから上手くいかないと思い、新聞の求人広告にあった地元の不動産に入社したのが21歳の頃。その不動産は3カ月で売れなかったらクビという厳しい条件の会社だったが、不動産の水があっていた。1ヵ月もしないうちに午前中1棟、午後1棟を売った。運が良かった。そのままトントン拍子で昇進し、年収4,000万円ちかくの収入になっていた。それがバブルという時代の絶頂期だ。

91年にバブルが崩壊し、不動産不況が始まった。中古物件原形のまま売っても販売が伸びなくなった。そこで、工務店にリフォームを丸投げしていたのを、工務店に積算を依頼し発注価格と請負額で利ザヤを稼ぎ、仲介手数料と工事粗利の合算売上で稼ぐ方法をみつけた。

 

 

 

1985年ごろ、大手かつらメーカー時代

「リフォーム会社を起業、メニュー型チラシ反響市場を発見」

小学校の時の夢は漫画家になることだった。絵心があり、技術者的な意識もあるので自分で図面を書くようになった。独学で勉強し、自分で図面を書いて、中古物件を販売していたので売り上げが維持できた。しかし、バブル崩壊で会社との軋轢ができた。そんな時先輩が独立することとなり「月50万円しか払えないけど一緒に働かないか」と誘われた。不動産業界に嫌気がさしてしまっていたのもあった。不動産会社社長に辞めるなら同業に行かないことを約束した。それは奥田がライバル会社に勤めることを脅威に思ったのかもしれない。しかし、とても恩義のある社長だったので約束を守り不動産会社には転職せず、先輩と川越にリフォーム会社を起業すると報告した。

 

起業した時の事務所は8坪、社員は事務員を入れて4名。手探りでのスタートだった。先輩が蕎麦屋のメニューの様にリフォーム業もメニューチラシを作って配ることを考えた。チラシは当時のワープロを使って奥田が構成した。最初は単なる羅列した文字でしかなかったが、それでも500枚~1,000枚に1件の反響がきた。価格訴求型のメニューチラシによる反響営業というマーケットを発見した。しかしこのメニューチラシは後にリフォーム業界から大きな反感を買うことになる。

 

色々工夫をしていくことが大事だと気づかされた。大手かつらメーカーに勤めていた頃、毎回鉛筆で同じような図柄を書いて筆談していた。毎回同じ図柄なら図形化したものを印刷してそのまま説明しようと思い、なけなしのボーナスで当時20万位のワープロを購入、それがその後リフォームのチラシを構成したワープロだった。印刷したその上に説明を書くことにした。説明時間の短縮化を図った。色々工夫したことで他の人より段違いに成績が良かった。チラシも工夫し当時からビフォーアフターのも載せていた。

元々‘プラス’という社名だったが、事務用品通信販売のアスクルも‘プラス’と言う名前だった。アスクルもリフォームを手掛けており、既に登記されていた。商業上のライセンスが重なるということで、会社の看板を全て取り替えた。

先輩と作った会社は4人から27人まで増やしていた。川越から始まり、翌年には大宮店を出す事になった。社員の面接は全て奥田が行い常務という名目のもと会社を切り盛りしていた。正月休み中、新店の店舗工事中に社長である先輩から「色々と面倒くさいから大宮店はお前がやって、」といきなり言われた。一緒に大宮に行く仲間が「奥田さんがやるしかないですよ」とみんなに神輿を担がれ、やるしかないと思い26歳の時、5人で始めた。

 

②へつづく・・・

創業の事務所。社名はプラス。