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2020/07/02 ジェルコの履歴書

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ジェルコの履歴書 其の壱 山商リフォームサービス株式会社① 

「プライベートのない環境で育つ」

山商リフォームサービス株式会社 山﨑晶弘

幼少の頃の思い出は

大田区で地域密着型LPガスの燃料商を営んでいた父親が、大学4年生の時に亡くなった。当時は個人商店だった。下がお店で2階が住居。母親が買い物に行くと会う人がみんな得意先だから挨拶を強制された。子供の頃はそれが嫌で、サラリーマンの家庭環境を羨ましく思った。公私混同でプライベートがほとんどないという環境で育った。

               山商リフォームホームページより

「演劇にかけた青春」

元々稼業を継ぐ意思はなかった。高校時代に演劇を志し、大学でも続け、就活も劇団を希望していた。高校を卒業して普通の大学を目指して予備校にも通ったが、演劇ができるのはもって生まれた才能がある人だけと先輩にいわれたが、どうしても演劇方面に行きたかった。

父親が他界し、大学を卒業する際、高校2年から大学4年まで6年間青春を演劇に懸けてきて、このまま続けるかどうか、悔いのないようにしようと思っていた。

実は、高校時代に一目ぼれをした憧れの女性がいた。何回か誘ったことがあったが、相手から誘われることもなく、縁がないのかと思いながら卒業した。

青春6年間を懸けた強い想いから、悔いのないように思い切って彼女へ電話をしたら、トントン拍子で上手くいき、結婚までいく運びとなった。すると目指している演劇で生活ができるのか、今生活できても先行きが不安になった。

親御さんにご挨拶に行った時、娘をとるか、演劇をとるかと聞かれ、沢山の人に愛されるより1人に愛される方がいいと思い演劇を辞めた。

さて、辞めたはいいが、勤め先がなかった。家業の燃料商は既に辞めていたが、父親の趣味で園芸をしていた。倉庫の上に何千鉢の園芸品があり、土や鉢をまとめ買いしていた。

私の生まれた東京都大田区は山の手に行くと田園調布だが、海辺の方の羽田等は漁師の町だった。中小町工場が犇めき合っている環境だった。そんな環境だと人は土が恋しくなる。そのため園芸品を売ったら結構商売になった。

店は商店街の中でなかったので、もう少し場所のいいところとして現在の場所(東京都足立区竹ノ塚)を父親が残しておいてくれた。そこに16坪ぐらいの小さな店を建て、駅前なので園芸より生花や切り花を販売する会社を設立した。

ということで、1977年に生花店を設立し、その後1983年にリフォームを創業した。

山﨑社長演劇かけた青春

「ジェルコへ入会」

ジェルコの創業も1983年。ジェルコへはすぐ入会したのですか。

ジェルコの会員はレベルの高い会社のイメージで相手にされないと思っていた。

そのため入会は遅れて2000年に入会した。おかげさまで、昨年の総会で在籍20年を表彰された。

 

「楽して儲かった訪問販売」

創業されてから色々なご苦労を乗り越えられて、これからも続けていこうと思った原動力はどういうところか。

今も変わらず夢を抱き続けている。

小泉元総理が言っていた鈍感力。私も鈍感だったことが良かった。苦労を全く感じない。最初にやった生花の店は金銭的には大変だったが、苦労という言葉にはあたらない。

最初は1人で経営していたので、自己資本もいらなかった。

30年前はリフォーム等の形のないものを売るビジネスは訪問販売が当たり前で、営業の勉強を始めた時、身近に考えたのがカーディーラーだった。

カーディーラーの研修は訪問販売の仕方を学ぶことだった。1週間缶詰で話の仕方から始まり、ヒアリングの方法と暗記の仕方をロールプレイングして実践していく。契約が取れれば受注、生産となるシステムで生花と比べたら桁違いの金額を生みだした。こんなに楽をして儲かる商売に感激した。

カーディーラーにお勤めの頃

「生花店からリフォーム店へ」

切り花からリフォームを始めたきっかけは。燃料商の関係か。

大学受験の時にも持って生まれたものだと先輩に言われ、受験勉強しないで大学に入った。その頃麻雀を覚えた。

切り花の仕事は過酷な現実がある。朝早く仕入れに行くが、ろくに仕入れも出来ない。

まさに肉体労働であった。

生花は綺麗に見える。しかし、仕事内容はとても過酷だった。生花は普通箱に入っていて、生花の下から1/3の葉を素手で落とし、落としたところをバケツの水の中で折る。その作業を水折作業と言う。水折作業後生花に水を吸わせて生き返らす。一連の作業をして、ようやく商品となる。手は汚れるし、水の入れ替えが重く大変だった。大変な重労働なのに売り上げは少なかった。仕入れてきた花は見る以外に価値はなく、痛んでくれば置いておけなくなり、廃棄しなければならない。現実の過酷さから逃げるため、現実逃避で麻雀へ行った。麻雀は結構得意だった。そこで勝って得をしたし、可愛がられたりもして、麻雀に逃げ込んでいた。毎日麻雀に通っていたがある日、職業について聞かれたので、生花のことを話したら、それだけ暇なら仕事を手伝ってくれと頼まれた。フルコミッション(full commission)で営繕の仕事手伝ったのがリフォームのきっかけ。

次回へつづく・・・7月9日アップ予定

次回は「壁を乗り越える前に何度も足踏み」
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