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2022/01/18 ジェルコの履歴書

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ジェルコの履歴書 其の四 喜多ハウジング株式会社②

喜多ハウジング株式会社 創業者(相談役) 喜多 計世(きたけいせ)氏

私は1970年に建築業の下請けの喜多室内装飾として創業致しました、

仕事をしながら「元請、下請」この関係にどうしても理解、納得、我慢出来なかった。

1976年にヨーロッパに旅行に行きました。そこでインテリアと内装工事は違う事が

解りました。当時から松下電工(現パナソニック)将来的に増改築時代が到来する、と言っていましたから、私は独自で金沢のある地域に、「今のお住まいを増改築するなら、建てた工務店ではなく、インテリアの会社が増改築をすると依頼しましますか?」

と300件のアンケートを取りました。その結果80%の人が依頼するとの返答でした。

そこで創業会社を廃業する覚悟で喜多ハウジング株式会社を1979年に設立致しました。

当時サンゲツから名古屋営繕工務店を紹介して貰い訪問しましたが、修理、物品型の増改築で、私の価値観、インテリアを重視した提案型増改築には合わなかった。

いろいろインテリアメーカー、松下電工等に相談しても情報が殆ど入らなかった。

私は独自で、町田ひろ子氏等を講師として、地元新聞社主催「インテリア増改築セミナー」を松下電工喜多ハウジング協賛で3年間、開催しながら市場開拓を致しました。

そんな時に中小企業家同友会広島全国大会で姫路のセルビ―ハウジングの小林さんに偶然出会いました。(今な亡き小林さんはメーカに紹介して貰い交流が有りました)

そこで昨年(1983年)日本増改築産業協会(ジェルコ)が設立された事を聞き、私は自分の会社の立位置を確認すると共に、学ぶ為に翌年年入会しました。

その当時メンバーは、谷口会長(シーズン)門脇副会長(東京住宅販売)中村副会長(ソサイテ)木原副会長(マルコシ)らが中心でした。年齢的には戦前生まれの人ばかりでした。

谷口さんは全体を上手くまとめていける人でした。門脇さんは苦労人で、ディスカウントの物売りリフォーム専門、中村さんは理論派でシステムキッチンメーカーを目指しておりました。木原さんは地域密着型を目指して独自の価値観を持っておりました。

私の記憶ですが、事務局長には小野さん、専務理事的存在はTOTOの増田さんでした。

そして、確か既に北海道支部、東北支部、関東甲信越支部、中部北陸支部、近畿支部、四国、中国支部、九州、沖縄支部が出来ておりました。主に、実践研究会として会員の体験報告が中心でした。私自身も全国の実銭研究発表会には積極的に参加して学んだ記憶が有ります。そんな環境の中1985年に建設省(現国交省)が21世紀は住宅リノベーション時代と捉えて、設立された日本住宅リフォーム紛争処理センター主催で「全国住宅増改築コンクール」が開かれました。そこで弊社が第一席の建設大臣賞を受賞する事が出来ました。

それから後、金融公庫総裁賞、日本住宅リフォーム紛争処理センター理事長賞のリフォームの上位の受賞を始め、ジェルコ、メーカ等の全国住宅リフォームコンクールで37年連続受賞を現在も継続しております。

 

弊社が建設大臣賞を頂いてから。ジェルコ各支部、大手住宅関連先、住宅パーツメーカー、

エレメントメーカーから講演依頼、会社訪問、租談が増えました。

今世紀に入りジェルコも成熟期を迎え谷口会長からリファイン奈良の山田さんに会長が

代わり私は副会長として山田さんを支える立場でいましたが、山田さんが会社の都合で

突然引退してしまい、私はその責任を取る立場にいましたが当時私は石川県中小企業家同友会の代表理事の立場でありましたから、二つの代表は出来ないと、再度谷口さんに登場依頼を無理にお願いしました。私は責任を感じて理事の辞表を出したら、谷口さんから「喜多さんが私の命令に従わないなら会長は引き受けない」とくぎを刺されました。

私は21世紀ビジョン委員会委員長を引き受ける事になりました。(法人化が出来ました)

私の持論は、同じリフォームでも価値観が違う人と勉強していても学びが少ないから

支部を廃止して修理、修繕、施工型。物中心の物販型 。提案型では如何かとの提案をしました。21世紀になり、谷口さんから山口さんへ、そして中林さん、中山さん、今はゆめやの盛さんです。

私は谷口さんの引退と共にジェルコから身を引き弊社常務今井猛にバトンタッチしました。

 

この文章で登場された人、小林さん、門脇さん、木原さん、谷口さん、小野さん、増田さんはこの世にはいません、ご冥福をお祈り致します。